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(クリックすると拡大します。なお、この航空写真は国土交通省のサイト「国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)のご利用に当たっての注意事項」、及び国土地理院2万5千分の1地図のウェブへの記載方法(登録を要しない範囲)に基づき記載しております。) 予讃線伊予長浜駅〜伊予大洲間は大正7年2月14日に開通している。が、当時の讃予線(現予讃線)は香川県側から伊予三島までの開通が大正6年9月16日という状態であった。松山まで延伸したのが昭和2年4月3日、喜多灘駅開業が昭和10年10月6日、伊予平野駅開業が11年9月19日だから、この区間だけが鉄道開業していたことになる。一方で、内子線の4駅はいずれも大正9年5月1日だからなんと松山駅よりも歴史があるのである。 この区間の鉄道は元々は愛媛鉄道として、おそらく木材等の搬出を目的にした軽便鉄道だったのではないだろうか。
左:@旧和田トンネル、現在は春賀トンネルとなっている、右:A旧八多喜トンネル この八多喜付近名は3つの旧トンネルがある。一番南が旧和田トンネルだが、現在は道路トンネルとして、春賀トンネルと命名されている。八多喜駅を過ぎて、和田集落方面の谷へと分け入り、トンネルへと向う。トンネルは拡幅されているが、離合は少々厳しい。 トンネルを下ると新町集落に出る。この川は清永川であり、これを渡ると、再び勾配が始まり、八多喜トンネルへと入る。こちらは、鉄道当時のままのトンネルで、照明はあるが、当然ながら非常に狭い。流水対策として、トンネル内にビニル板が張られている。
左:B旧八多喜トンネル北側、右:C旧河内トンネル南側の盛土 八多喜トンネルを過ぎると、米津の集落に出る。ここが河内川で、これを渡るとすぐに勾配が始まる。が、地図でもはっきりとは現在の道路を書き入れてなく、地図のとおりに行くと、牛舎に出て道が尽きる。地図をもう一度見ると、カーブなどない。つまり、そのまま築堤が始まって、墓地の脇を過ぎると、荒れた道の向こうに古いトンネルが口をあけている。 トンネルは暗く、しかも水が溜まっている。すぐ向こうが出口のようだが、歩いて行けそうにはない。仕方なく、トンネルを迂回して白滝側から再びトンネルの北側に出ると、こちらは、近くの集落の倉庫と化している。
左:D荒れた旧河内トンネル、右:E旧河内トンネル、中は水が溜まっていて、抜けられない そのまま反対側を向くと、線路が接近しており、その向こうで合流している。つまり、現在の線路は、そこから付け替えられたと思われる。 では、なぜ、線路を付け替えたのか?当初の線路は、なぜわざわざトンネルを抜いたのか?であるが、ひとえに、当時の肱川の河川堤防がしっかりしていなかっただからと思われる。現在でこそ、河川管理がされているが、それでも大洲あたりでは冠水するわけだから、大正当時は河川の氾濫区域には敷設できなかったのであろう。 現在でも、春賀あたりで県道は駅を大きく離れて河川近くを走っているが、アスファルト舗装ではなく、コンクリート舗装だと聞く。つまり、冠水することを最初から想定しているというわけだ。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といったところか。
左:F旧河内トンネル北口、右:旧河内トンネル北口、ここで現在の路線と分かれる どうにも手が付けられなかった肱川も昭和10年頃には、治水事業が進んだのだろう。この頃松山から伸びてきた国鉄予讃本線(現JR四国予讃線)では、改軌によるトンネル断面の問題もあって、この線路を捨て、新たに肱川沿いに新線を建設したものと思われる。時代はまさに戦争前夜、物資輸送が最優先される中で、旧線を利用することはできなかったものと思われる。予讃本線が八幡浜駅まで到達するのが昭和14年2月6日、宇和島では現在も駅から海へと続く妙な空地を「軍用道路」というらしいが、宇和島までの線路が繋がったのは(八幡浜〜卯之町間開通は)昭和20年6月20日、まさに終戦2ヶ月前を切っていた。(2007.04.01、写真は全て2007.03.31) |